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2010年1月18日 (月)

歓楽街・新宿の原点

P1801 P1800  同窓会事務局の新年会が新宿で行われ、少し早目のお出かけで新宿を散策した。新宿二丁目には大宗寺、正受院、成覚寺の三つのお寺が隣接してあり、内藤家の菩提寺の大宗寺は広い境内を持ち、山の手七福神の布袋尊が祭られ多くの参拝客が訪れています。心に残ったのが成覚寺(じょうかくじ)です。

 成覚寺は新宿二丁目の靖国通り沿いにある浄土宗の寺院です。十劫山無量寿院成覚寺が正式名称。文禄3年(1594年)の創建と伝えられている。たいへん小さなお寺です。

 このお寺、いまや日本の繁華・歓楽の街となった新宿、その原点となる宿場町で、過酷な目に会った娘さんたちに縁ある場所です。

 家康が江戸に入城した翌年(1591年)、功績のあった高遠藩の内藤清成は現在の新宿付近一帯に広大な地を与えられた。今の新宿御苑に中屋敷を構え、その前の甲州街道(今の新宿通り)沿いに町屋ができて内藤宿と呼ばれるようになった。

 その後、吉原遊郭の繁栄ぶりを見た町人などが、一獲千金を目論んで内藤宿に新しい宿場を作り、岡場所(非公認の遊郭)を設けました。新しい宿場は内藤新宿と名付けられ、今の新宿の名前と町の発達の原点となりました。

 内藤新宿の娼家は非公認のため、遊女を置くことができません。そこで人買いは旅籠屋のお客の給仕をする「飯盛り女」として、各地の貧農から十歳にも満たない若い娘たちを買い、娼家に売りつけ(人身売買)、娼婦に仕立てられました。過酷な性の働きを強いられた娘たちは、奉公途中に病気になれば放置され、死亡すれば身ぐるみ剥ぎとられ、俵に詰められて投げ込み寺、成覚寺へ葬られたという。その数二千~三千と言われています。

P1802 P18021  境内には1860年に内藤新宿の旅籠屋によって作られた、石造りの供養碑「子供合埋碑」がある。「子供」という名称は、旅籠屋が飯盛り女たちを子供と呼んでいたためである。

P1803 P18031  また、門の片隅には「旭地蔵」が建っている。遊女と客の叶わぬ恋の果てに心中した男女、宿場で不慮の死を遂げた旅人の供養地蔵です。台座には18名の名前が刻まれ、男女が対になったものが7組もあります。この地蔵をお参りすると子供の夜泣きが治る言われ、別名「夜泣き地蔵」とも呼ばれています。

 P1804 その他、江戸時代中期に活躍した浮世絵師・狂歌師・戯作者「恋川春町の墓」(本名・倉橋格俗称)、白糸塚(伝説、鈴木主水白糸ゆかりの地)もあります。

 こんな小さな寺に江戸時代からの歴史が刻まれ、歓楽街・新宿の生い立ちを知る事ができて参考になりました。 

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コメント

青さん、お久しぶりです。
今年もよろしくお願いしますね。


繁華街の一角にこのように静かなところがあるんですね。遊女と客とのかなわぬ恋・・・勝手にロマンチックなことを想像してしまいますが、きっともっとドロドロしたものだったのかもしれません。

私もとても勉強になりました。

投稿: パソコン講師なお | 2010年1月19日 (火) 06時13分

Naoko先生 お早うございます!
今年もよろしくお願いします。

恋は素敵でも、年季奉公から抜けるのには莫大なお金がかかり、叶わぬ恋になったのでしょうね。悲しい……
男尊女卑、幼い女の子の人身売買、厭な時代だったと思います。

投稿: 青さん | 2010年1月19日 (火) 07時42分

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